JR境線完乗の旅 (米子~境港間)山陰の鉄道発祥路線

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  • Опубликовано: 4 фев 2025

Комментарии • 10

  • @キングの車庫チャンネル
    @キングの車庫チャンネル 2 года назад +1

    確か境線は早朝と夜は1両での運転だった気がします。夕方頃に米子駅に来ると鬼太郎列車の切り離しが見れたと思います。

    • @HIDEKYU
      @HIDEKYU  2 года назад

      コメントありがとうございます。
      そうなんですか、夕方の米子駅霊番乗り場は、要注意ですね。

  • @YumekazeExpress585
    @YumekazeExpress585 2 года назад +1

    境線を通勤で使ってましたが博労町の由来は初めて知りました!
    後藤総合車両所は人生初の車両所公開に行った場所なので懐かしかったです

    • @HIDEKYU
      @HIDEKYU  2 года назад +1

      コメントありがとうございます。
      僕は後藤総合車両所には入った事無いです。

  • @いっこう-s5q
    @いっこう-s5q 2 года назад +1

    空港に並行する道路に鬼太郎メロディがタイヤの摩擦で聞こえます。

    • @HIDEKYU
      @HIDEKYU  2 года назад

      コメントありがとうございます。
      そうなんですかぁ。初耳です。どんな風に聞こえるのか、聞いてみたいです。

  • @njdhjrijdlspkojgmvnhkbuegk1505
    @njdhjrijdlspkojgmvnhkbuegk1505 Год назад +1

    子どもの頃、大篠津駅にはキサシ180ばかりでなく、キハ20系の初期型台車付き車両やキハ26なんかも放置してましたねえ。
    キサシ(「しなの」のお下がりですね)については、1968~72年製造ということで減価償却期間が過ぎておらず、かといって後藤工場内に放置する場所もなかった等の理由で名目上『長期休車扱い』として大篠津に不法投棄(笑)されていたと思いますが、まあ米子運転所所属の不要車両を留置できる場所が他になかったからではないでしょうか。

    • @HIDEKYU
      @HIDEKYU  Год назад +1

      コメントありがとうございます。
      大篠津に留置されていた理由、ご教示ありがとうございます。廃車できなかったのですね。食堂車の需要の減少がそれだけ早かったのと中央西線でキサシを引っ張るのがしんどかったのでしょうね😅

    • @njdhjrijdlspkojgmvnhkbuegk1505
      @njdhjrijdlspkojgmvnhkbuegk1505 Год назад +1

      @@HIDEKYU 様
      まあ、かつて国鉄はDD54型ディーゼル機関車を法定耐用年数(18年)どころか、長くて10年、短いものでは4年強で全廃したことで、国会で叩かれ、会計検査院にもぶっ刺されましたという苦い経験をしてますので、キサシも用済みとなったからといってすぐにはポーイできませんでした。
      ちなみに、中央西線は1973年5月に電化開業。
      要するにキサシ180最終増備車が製造完了した翌年には早くも381系がデビューしていたことになります。
      最終増備車となったキサシは恐らく、当初から「やくも」への転用を考慮の上製造されていたとは思います。
      381系電車の増備が間に合わなかった影響で、「しなの」では1975年3月までは181系も引き続き使用されていましたが、いかに出力500PSとハイパワーを誇るDML-30HS系エンジンを搭載するとはいえ、181系ディーゼル車使用列車では381系振り子式電車と比べ所要時間に雲泥の差があったことに加え、駆動用ディーゼルエンジンを搭載しない付随車キサシを組み込んでの中央線運用はかなりきつかったみたいで、73年10月には駆動用ディーゼルエンジン搭載車両の負荷軽減及び食堂車要員事情・採算性の威面から食堂車が外されていたようですよ。

    • @HIDEKYU
      @HIDEKYU  Год назад +1

      ご教示いただきありがとうございます。
      キサシもキハならと思いますが、キシ80も早々に編成から外された事を考えると食堂車自体が需要なくなったですね